2016年2月

懐かしい国、ミャンマー(その2)

 会報12月号で触れたミャンマーの続きを書いてみたい。私は大学の建築学部志望のミャンマー人の女性、ナイさんの家庭教師を引き受け、無事その任務を終えることが出来た。
 次のナイさんの目標は、軍事政権で輸出入がままならないため、日本に会社を作ることだった。紆余曲折の末、なんと私がナイさんら一族のために有限会社の設立を手伝うことになった。出来た会社でナイさんが私に売りさばいて欲しかったのは、親族が持っている宝石の山のピンクルビー。その話を受けて、私は行く先々で「宝石売って福祉しない?」と話したようだ。興味を持ったお父さんが二人集まったので、早速三人でミャンマーへ行ってみることにした。それは1998年、ミャンマーの観光元年のことだった。
 私はミャンマーについてほとんど知らないまま入国。税関を出る時、ナイさんの荷物の中の携帯が没収された。そこで売店でたばこを1ケース買って渡すと、すぐに携帯は戻ってきた。それがこの国の第一印象だ。空港の作りがとても華奢だと思ったら、地震の無い国だった。ビルの工事現場の足場も竹だった。空港には大勢の日本人の旅行客がいたが、その後一人の日本人とも会わなかった。私は観光ルートと全く異なる場所に行ったのだと思う。当時の首都はアウン・サン・スー・チー氏が軟禁されていたヤンゴンだ。空港にはナイさんの親せきが大勢迎えにきていた。彼らは何故かいつも大勢で行動する。駐車場に物売りの子どもはいなかった。町では軍人や警察官の姿はなく、一見平和そのものだった。私たちが案内されたのは、某ミャンマー支社長のお宅で、ホテルのようなゲストルームがいくつもあり、もちろんプールもある旧イギリス領の邸宅だった。しかしエアコン、お風呂、トイレなどは快適ではなかった。でも従業員は故障しても決してあきらめず、器用に修理した。
 私が一番に行きたかったのはマーケット。市民の暮らしが一番わかるところ。記憶ではマーケットはとても広く感じた。私たちはミャンマー人がみな身にまとっている“ロンジー”を購入した。私のは高貴な人が着る金糸入りでくるみぼたんのロンジーで、しかもファスナー付き。一日で仕上げてくれた。ミャンマーは電気事情が悪く、マーケットは時々停電した。魚介類も肉も豊富だが、保存方法がまだ不備のようだった。
 ロンジーを着ない人が集まっていたのは、ホテルの中のディスコ。運転手付きの車に乗った若者だけが集まるところ。そこでは日本のファッション雑誌から抜け出たような男女が、お酒を飲み、たばこを吸い、倦怠感を漂わせていた。
 宝石工場に案内してもらうと、かつての日本の家内工場に似ていて、みな手仕事だった。お客はドラッグをやりながら待っていた。さすが麻薬の三角地帯に関係する国だ。病院にも案内してもらうと、外貨を稼ぎに親が留守している間に、家財を売ってドラッグに溺れた子どもたちが収容されているという。当時タクシーの運転手が月給15000円。日本のレストランで働いていたミャンマー人は時給1000円だったから、海外での仕事は魅力的。ミャンマーにはまだ相続税の法律がなく、貧富の差は広がるばかり。その裏で起こるのが子どもの麻薬だった。
 町に障がい者の姿は無く、フィリピンへは技術援助が始まっていた車椅子が、まだ浸透していなかった。ナイさんに頼まれ、業者の協力を得て何台か送ってみたが、道路事情も悪い中果たして使いこなせたのだろうか?
 寝釈迦像が安置されているパゴダには、一日のんびりとお参りする人々がいた。寝転んでいる人もいた。パゴダの塔には約6000個の美しいダイヤやルビーの宝石が埋められていた。盗難を心配すると、「罰があたるから誰も盗まない」とナイさんは言った。紫の衣をまとうお坊さんが托鉢する姿もあちこちで見られた。ミャンマーは仏教で知られる国だが、キリスト教の信者もいた。ナイさんの親戚の家に伺うと、大勢の家族がいた。みんな親日家で昔から知り合いのような懐かしさがあった。大切なものを表現する時、「家族のように大切」と言うそうだ。他のアジアの国々にあって、日本が失いつつあるのは、宗教心と家族愛かもしれない。
 20年程の前のミャンマーは、“アジアの最後の市場(しじょう)”と言われ、世界各国が動の前の静のように進出の機会を待っていた。民主化された昨年から各国企業の参入が相次ぎ、情報も増え、急激に様変わりしていくことだろう。ひとつの国の歴史がどう変わっていくかが、興味深い。そうそう、「宝石売って福祉しない?」は、ヤンゴンに事務所まで用意され、翌年も仲間が訪れてみたものの、結局駐在する者がいなくて頓挫してしまった。現在のミャンマーの様子は、今月と来月ミャンマーを訪れる職員から、後日お伝えしたいと思う。



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